耳鼻塚について解説した「麒麟よこい〜日韓和解の決め手はこれだ!耳鼻塚の鎮魂・供養のすすめ〜」を展望社より2020年9月10日に出版しました。

著者 金文吉 釜山外国語大学名誉教授、韓日文化研究所所長

編者 天木直人 元レバノン大使、新党憲法9条代表

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 被害を受けた者も被害を加えた者も、歴史を正しく客観的に直視し共有することが、お互いを理解し合う上で重要でありそのことによってはじめて、お互いが未来に向かって和解できるということです。

この事に異論を持つ人は、日本にも、韓国にも、いや世界中でひとりもいないと思います。

そういう時代になったいまこそ、過去の歴史から逃げる事なく向かい合い、許し、過去を乗り越えて、お互いの理解を深める努力が重要であると思っています。

その私の思いを日本の皆さんにお伝えしたいと思ってこの本を書くことにしたのです。(本文より)

耳鼻塚についての説明内容を書籍より一部抜粋してご紹介させていただきます。

文禄・慶長の役が残した耳鼻塚

豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮出兵、つまり日本で言う文禄(1592-93)・慶長(1597-98)の役は、韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱と呼ばれています。

この朝鮮出兵について日本ではどのように教えられているか私はくわしくは知りませんが、韓国にとっては、これらは紛れもなく侵略戦争でした。

そしてこの侵略戦争によって、多くの朝鮮人は殺戮され、数万人の朝鮮人たちが日本に拉致・強制連行されました。

朝鮮の文化財も略奪されました。

文禄・慶長の役は当時の朝鮮のすべてを奪った戦争だったのです。

だからといって、私は当時の侵略戦争を非難するつもりでこれを書いているのではありません。

今と違って、当時は侵略戦争は世界中のいたるところで行われ、勝ったものが正しいという時代だったことを知っています。

私がここで言いたい事は、被害を受けた者も被害を加えた者も、歴史を正しく、客観的に直視し、共有することが、お互いを理解し合う上で重要であり、そのことによってはじめて、お互いが未来に向かって和解できるということです。

この事に異論を持つ人は、日本にも、韓国にも、いや世界中でひとりもいないと思います。

朝鮮出兵から4百年以上の年月を経て、いまでは侵略戦争は認められない世の中になりました。

個人の基本的人権は国家の間違った行為から守られるようになりました。

そういう時代になったいまこそ、過去の歴史から逃げる事なく向かい合い、許し、過去を乗り越えて、お互いの理解を深める努力が重要であると思っています。

その私の思いを日本の皆さんにお伝えしたいと思ってこの本を書くことにしたのです。

私がこの本で日本の皆さんにお伝えしたい事は、朝鮮出兵の過程で行われた豊臣秀吉の残酷さです。

その残酷さは、殺戮した朝鮮人の数を武将たちに競わせ、その戦果の証拠として、首の代りに、耳、鼻をそぎ取って持ち帰らせ、褒美を与えたことにあります。

手柄を競った当時の武将たちは、朝鮮の軍人だけでなく民間人も犠牲にし、老若男女問わず、鼻や耳を削ぎ取って、それを塩漬けにして持ち帰りました。

数を増やすため、生きている者の耳・鼻すら削ぎ取って持ち帰ったとさえ言われています。

韓国の歴史において間違いなく一番恥辱的な歴史は、この文禄・慶長の役、すなわち韓国で言う壬辰・丁酉戦争であったのです。

まず、この事を日本の皆さんに知ってほしいのです。

知らない者にとっては存在しない事と同じです。

知っている者と知らない者との間では話はかみ合いません。

そう思って、私は、どうしても日本の人たちに知っていただきたい事を書くことにしました。

それでは、今を生きる私たちは、この過去に起きた日韓両国の間の不幸な歴史に対して、どう対応すればいいのでしょう。

この事について私は最後に私の考えを提案させていただくことにしました。

どうすればいいかについては色々な意見があると思います。韓国人の間でも意見が分かれる部分があります。

だから私は私の提案を日本の皆さんに押しつけるつもりはありません。

どう対応すればいいかは、やはり韓国人が押しつけるものではなく、日本の人たちが考えるべきだと思います。

重要な事は日本の人たちが自発的に行う事です。それが出来れば、韓国は国をあげて喜び、歓迎するでしょう。

今の日本と韓国の両政府の関係を見ていますと、日本政府が私の提案を受け入れていますぐ実施に移すことができるとは思いません。

日本政府は日本国民の総意を尊重する必要があるし、何よりも国家の威信がかかっているからです。

しかし、もし日本の人たちの多くが動きだせば、その動きが日本政府を動かすことになるかもしれません。

京都の耳鼻塚の史実を共有すれば、必ず共通の理解に辿り着きます。そうなることを願って、これから京都の耳鼻塚について説明していきたいと思います。

なぜ耳・鼻をそぎ落すような残酷な事が行われたのか

皆さんもご存じのように、戦国時代、敵の首級をあげるのが戦いに勝つあかしでした。

従って、豊臣秀吉に命じられて朝鮮出兵に参加した武将たちは、首を刎ねて戦果として持ち帰ろうとしました。

しかし、首は重く、たくさん持ち帰るのは難儀です。そこで豊臣秀吉は首の代りに耳や鼻をそぎ落とすように命じました。

耳は一人に二つあるので数をごまかすことができる、そこでひとつしかない鼻となったのです。耳鼻塚ということばがそれを示しています 

武将たちにとっては、褒美をもらうためには数が多い方がいい。

そして耳や鼻なら誰のものかわからないので、数を増やすため軍人だけでなく民間人も、そして、老若男女の別なく、おびただしい人を殺し、耳、鼻がそぎ落とされました。

最後は生きている人の耳や鼻を削ぎ落すようになりました。

当時の朝鮮では鼻の無い人が目立つようになり、それを人目につかないように隠して暮さなければいけない人もでてきたそうです。

鼻がないと感染しやすく、結局病気になって死んでいった人も多かったといいます。

人間の尊厳を奪った、なんと残酷で悲しい事でしょう。

当時の武将たちが、すべてはじめからそれほど残虐だったわけではないかもしれません。

しかし戦国時代が皆を残酷にして行きました。

その中でも、豊臣秀吉はとりわけ残酷だったと言われています。

そして、その豊臣秀吉に命じられ、褒美をもらえるとなれば、皆競ってどんどんと残虐になっていったのです。豊臣秀吉の罪は重いと思います。

ちなみに豊臣秀吉は、みずから京都に造った聚楽第に自分の悪口の落書きが見つかった時、怒って門番たち全員の鼻と耳を削いだ上に磔にして殺したと伝えられています。

さらに言えば、豊臣秀吉は、二度目の朝鮮出兵、すなわち慶長の役の時の方がより残虐になり、そがれた耳鼻の数も急増します。

それは戦いが劣勢になり、それをはね返そうとしてますます残虐になって行った事を物語ります。

なぜ豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたかについては、次のような見方が日本の歴史家の中で指摘されています。

すなわち、全国統一を成し遂げた後の豊臣秀吉の最大の課題は、統一後の社会の仕組みをどう転換するか、仕事を失った武士たちをどう処遇するかでした。

ところが豊臣秀吉は正しい答えを見つけられず、朝鮮出兵と言う形ではけ口を見つけたというのです。

そんな理由で朝鮮出兵を行い、多くの朝鮮人を犠牲にした豊臣秀吉は、韓国人にとっては、日本のどの権力者よりも一番嫌われています。

この事も日本の皆さんに知ってもらいたいと思います。

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