民俗学者の小松和彦氏が認めてくれた耳鼻塚供養の重要性

一週間前ほど前の朝日新聞に「かあさんのせなか」というコラムがあった。

 このコラムは小松和彦という民俗学者の小松和彦氏が母親の思い出を書いたものだ。

 夫を早くに亡くし、苦労して学校にやった息子がカネにならない民俗学者をこころざしてがっかりしたが、それでも好きな事をやるならやればいいと許してくれた、その母が、一人前の研究者になり多くの著作を出すようになったの見て、著作を出すたびにその本を父の仏壇に報告し、あの世に行っていい報告ができると喜んでくれたことを語る、そういう、よくある、ほのぼのとした母親を偲ぶコラムだ。

 いつもの私ならそのコラムを関心を持って読む事はなかっただろう。

 実は私は最近「重ね地図で読み解く京都の『魔界』」(宝島社新書)という小松和彦氏の最近著を本屋で見つけて読んだばかりだった。

 偶然に知ったこの本は、昨年7月に初版が出ているから最近の本だ。

 そして「麒麟よこい」を編集・出版し終えた後に、私はこの本の存在を知った。

 そして読んでみて、あらためて京の都が怨念の都であり、怨念を鎮める事がいかに安寧な生き方にとって重要であることかを知った。

 そもそも千二百年もの歴史を持つ京都への遷都の理由が、桓武天皇が弟の早良(さわら)親王の怨霊から逃れるためであったということだという。

 そして菅原道真を祀る北野天満宮をはじめ、京都に現存する名所・旧跡のほとんどが鎮魂に関係するものであるという。

 私が「麒麟よこい」で訴えた事が、民俗学者であり文化人類学者の大家である小松和彦氏のお墨付けを得たということだ。

 私が心強く思ったのは、小松氏がその本の中で、耳鼻塚の事と豊臣秀吉の事を次のように書いていたことだ。

 ・・・時代を経て権力者の趨勢も評価も変わるものだが、豊臣秀吉はその典型例だろう。

 海外侵略を進めた秀吉は明治天皇に顕彰されたが、現在では晩年の秀次の処刑、朝鮮出兵は真逆の評価を下されているのではないだろうか・・・

 敵味方に多大な犠牲を出した朝鮮出兵は秀吉の死をもってようやく幕を閉じた。

 この間、武将たちは戦闘の証として、敵の耳や鼻を削ぎ落して秀吉のもとに送ったという。本来送るべき首では船の輸送が大変なので、かさばらない耳を選んだのだという。

 のちにこの耳や鼻を埋葬したのが、豊国神社前の丘に残る耳塚だ。

 かつては武功の証であった塚も、今では暴走した権力者の愚かさと、戦いに憑かれた者の野蛮さを伝える負の遺産になっている・・・(115頁)

 10月23日に予定している我々の鎮魂・供養式を知ったら小松氏は、それはいいことだと、評価してくれるに違いない。

 無念の死を遂げた魂の鎮魂は、敵も味方もすべてを救ってくれるのである。(天木直人)

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